熊本県の北部にある玉名郡長洲町で看護師を目指し、看護専門学校に通っていた看護学生が、学費や生活費を賄うアルバイトで収入を得たことを理由に、祖父母が受けていた生活保護が打ち切られた。専門家は「違法な対応」と指摘する一方で、裁判では県の対応に違法性はないとの結論が確定した。この事件は「長洲事件」と呼ばれ、子どもの扶養義務や自立が問われている。
資格に挑戦途上の生活保護打ち切り

看護学生の祖父母が生活保護受給手続きをしたのは2014年。その際、看護学生とは同居していたが、「世帯分離」の手続きをした。世帯分離とは、一定の事情がある場合に世帯の構成員を生活保護が支給される世帯の家計から切り離す制度で、生活保護受給者の子どもなどは専門学校や大学といった高等教育を受けることが認められないため、高等教育を受けたい場合には世帯分離が必要となる。これにより、生活保護費は祖父母のみに払われ、孫娘は独立した生計として自分で学費や生活費を賄うことになる。
孫娘は2年後の2016年、准看護師の資格を取得したことで、収入が増えた。正看護師の資格を得るために不可欠な実習に向けてお金を貯めていたところ、熊本県の玉名福祉事務所はそのお金で祖父母を扶養できるとして世帯分離を解除し、祖父母に対する生活保護を打ち切った。代理人弁護士によると、祖父が生活保護の再開を求めたところ、福祉事務所が家庭を訪問し、孫娘の体調が悪い中で部屋のドアを叩くなどして30分以上にわたって面会を求められたことが影響して孫娘はうつ病を発症し、1年間働けなくなったという。
1年後には再び世帯分離をし、生活保護が再開されたものの、これは孫娘のアルバイト収入が減り、世帯全体の収入が最低生活費を下回ったことによるもので、孫の収入が増減するたびに再開と停止が繰り返された。そのことで、祖父母は経済的、心理的両面で不安定な状態におかれたという。「1年の間本当にきつかった」と祖父(76)は語る。祖母が乳がんにかかり、入退院を繰り返した。(通院での)放射線治療に毎日5000円かかったため、(当日の支払いではなく)お金が入るのを待って月1回支払うように頼んだという。年金だけで生活していたため、「こっちも払わなきゃ、こっちも払わなきゃ」という気持ちになり、心理的にも不安定にさせられたと語った。祖父は、狭い地域で本人が特定されやすく、生活の平穏が脅かされるおそれがあるとして、匿名を条件にWIPの取材に応じた。
「がんばり屋」だった孫
祖父は孫を「がんばり屋さん」と語っていた。朝は6時半から学校と仕事に向かい、祖父が起きたときには既に家にいないという状況だった。夜は21時、21時半でないと帰ってこないため、起きているときに顔を合わせる機会がなかった。1日17時間の仕事や勉強をがんばる姿を見て、感心していた。
離婚により母子ひとり親家庭となり、その後母が家を離れたことで、兄と共に祖父母に育てられてきた。小学3年生の時にいじめに遭い、中学校まで不登校だった。高校は定時制に通い、卒業後、近所のスーパーで働いたのち、家族のすすめで看護学校に入学することにした。出願したのは締め切り4日前だったという。
孫娘は一生懸命にやっていたという。「(中学校まで不登校、高校は定時制で)学校も行ってないし、よう通ったな」と述懐する。
2019年、孫娘は努力の末、国家試験を突破し、看護師の夢をかなえた。しかし、卒業してから5年ほど経つが、1回も祖父母の家に帰ってこない。福祉事務所による訪問をめぐるトラブルの後、音信不通になっている。代理人弁護士によると、「あなたが出ないと廃止されるよ」と福祉事務所から説明されたという。どこに住んでいるか大体は当てがあるが、無理して会って傷つけたくないと連絡を控えているという。「会いたい。会いたいけど、帰ってこん」と祖父は語り、孫への思いをにじませた。
「自分が反対になってみれ」原告の思いと憤り
祖父は2020年、熊本県に対し、世帯分離を解除し、生活保護を廃止した措置の取り消しを求め、熊本地裁に提訴した。1審熊本地裁では勝訴したが県が控訴し、高裁では逆転敗訴、そのまま最高裁で確定した。
だが、裁判に訴えて良かったと祖父は語る。声を上げないと、自分だけで終わってしまい、制度は変わらない。「どうにかせんといかん」と裁判するという気持ちだったという。初めてのことで、制度は分からなかったが、弁護士の人数が増えて、「こんな先生が応援してくれるんだなぁ」と感謝を語った。地裁で原告勝訴の判決が出たときは、うれしかったと振り返った。その後、熊本県が控訴した。生活保護については国が県に委託している法定受託事務であるため、控訴するかの判断については国による判断に従わざるを得ない背景がある。ただし、事件の発端は県の福祉事務所による処分だ。蒲島郁夫熊本県知事(当時)が「控訴回避の道を探ったが、断腸の思いで控訴する」と語ったことに対しては「県知事が言う言葉ではない。何でそげんこと言うかな。」と語り、「自分が反対になってみれ」と憤った。毎日新聞の報道によると、祖父は2審の意見陳述で知事による発言を「口先だけ県民の味方をしている」と批判し、「保護の廃止は間違っていると認めてほしい」と述べている。最高裁では、「ぜひともやってもらいたい」という期待があったという。結果は上告棄却となった。祖父は「がっかり。だめならだめで最初から言ってくれれば。」と振り返った。
テレビで取り上げられ、近所の人などから世間の(祖父を応援する)反応は耳に入っていたという。関心をもらえて嬉しかったと語る。
大学生に向けては、「(孫娘と)同じ環境の人を後押しするように広めてもらいたい」と語る。「終わったけど、全国に知れ渡った。同じ環境で、学校に行きたいけど行けないという人のために広めてもらいたい。」とメッセージを送った。
「48000筆集めたけれど」弁護士が語る法廷闘争

代理人弁護士を当初から務めた髙木百合香弁護士は、最初に祖父が相談に来た時の様子を「迷子のようだった」と表現する。福祉事務所による説明を「理解できる言葉ではなかった」とし、自身の状況をよく分かっていなかったと振り返った。祖父と共に、行政不服審査請求、再審査請求をしたが認められず、熊本の弁護士5人と京都から尾藤廣喜弁護士、竹下義樹弁護士が加わり、提訴に踏み切った。元厚生官僚で生活保護行政にも関わっていた尾藤弁護士による生活保護法の解釈や厚生省の内部通達が出された理由についての意見陳述が力になったと振り返る。地裁では勝訴し、熊本県による対応の違法性が認められた。
しかし、2審の福岡高裁では原告が逆転敗訴し、熊本県による対応には違法性がないと結論づけられた。広く行政の裁量を認めた判決を「保護世帯には何をやってもいい、生活保護世帯がなくてもいい人の判断」と髙木弁護士は批判する。また、孫の生活費については調査が不十分で、(生きるために不可欠な)自動車の修理代やガソリン代を考慮しておらず、実施基準を定めた厚生省の内部通達に反していると指摘する。判決では、正看護師への通過点である准看護師の資格を得たことで「一応の自立」を達成したとし、正看護師を目指していた経緯を「主観的事情」とした。非人道的であると髙木弁護士は指摘し、行政自身が正看護科まで通学させるという処遇方針を「ちゃぶ台返しにした」と批判する。さらに、能力がある人を育てて自立させることが社会へ良い影響を与えることを考慮せずに、看護師になりたいという志望を単なる主観的事情と切り捨てる高裁の判断には「幸福追求を何だと思っているんだ」と憤った。
髙木弁護士はこの高裁判決は「大学生にも関係がある」と警鐘を鳴らす。生活保護家庭の子どもが大学教育を受けるためには、この看護学生同様に世帯分離が条件となる。だが大学生として、不安定なアルバイトでも、ある月だけはかなりの額が稼げるような人もいる。それにより、その月の最低生活費を上回ったら、「一応の自立」を達成したことになりかねず、行政がそう判断すれば世帯分離を解除し、親たちの生活保護を打ち切って良いことになる。もし大学生が3年生での就活に備えようと、1、2年生のうちにアルバイトを頑張ってお金を稼ごうとして最低生活費を上回った場合には、それを理由に世帯分離を解除され、アルバイトで親を扶養することを強制されることになり得る。―そうなると、もし親にお金を入れなければ出身世帯の親や兄弟が苦しい思いをする。逆に、お金を入れれば就活に備えられないーーということになりかねない。
最高裁へ上告したが、結果は上告棄却となり、司法判断は覆らなかった。祖父らの立場をくんで公正な判断をするように求める署名が集まったことを挙げながら、「48000筆(を超える署名を)集めても変わらない」と悔しさをにじませた。「諦めきれない人はいっぱいいる」と語り、一旦行き始めた学校をやめなきゃいけない可能性が出てくるという制度のおかしさを訴え続けていきたいと語った。
「他の低所得世帯との平等を慎重に判断、経済的困窮の事情認められない」ーー熊本県の話
熊本県で生活保護を所管する、健康福祉部社会福祉課生活保護班に見解を聞き、文書で回答を得た。要旨は以下の通り。
世帯分離を認めるかについては、慎重な判断が必要である。特定の世帯だけを別扱いにすることが他の困窮世帯と比較して不公平にならないか、公平性を犠牲にしても正当化されるほどに「自立」に効果的であるかなどの様々な事情を総合的に判断して決めるべきだ。
その上で、1審の熊本地裁判決(県側敗訴)については6点を挙げ、判断枠組みと事件へのあてはめに誤りがあると批判している。その6点については次の通り。
1 判断枠組みの誤り
(1) 世帯分離を解除するか否かの判断について、自立の促進助長に効果的であると認められるか否かの観点を過度に重視していることの誤り
(2) 世帯分離を解除するか否かの判断について、世帯分離されている者の収入の増加を考慮することができないとする判示(判決内容)が誤っていること
2 当てはめの誤り
(1) 処分行政庁(熊本県)は、本件世帯分離を行うに当たり孫の収入増加にのみ着目したものではないこと
(2) 処分行政庁(熊本県)が、本件世帯分離解除や本件処分を行うに当たり、孫と夫婦の関係を重視しなかったことが不合理であるとはいえないこと
(3) 看護師の資格を取得するための就学は、(生活保護)法における「自立」助長に効果的であり、世帯分離解除を認めることは著しく不合理であるという判断は誤っていること
(4)本件世帯分離解除によって、夫婦が遠からず経済的に困窮したり、孫の生活が破壊されるような事情は認められないこと
「過去に例聞かぬ違法な対応」ーー専門家の話
12年間生活保護のケースワーカーを務め、生活保護について詳しい花園大学の吉永純教授に話を聞き、文書で回答を得た。(原文は敬体でしたが他のコメントにあわせて常体としています)
吉永教授は玉名福祉事務所による世帯分離解除を違法な対応と指摘した。「玉名福祉事務所の対応は、世帯分離規定の解釈を誤った違法な対応だ。局5-(3)(注:旧厚生省からの内部通達)には、世帯分離をしないならば、保護を要しないという限定(世帯全体の要保護性)はなく、これは自立を達成するためには学費や生活費がそれ相応に必要なことを理由にしたものであり、玉名福祉事務所はこの点を看過し、収入が増加した点だけに目を奪われたものだ」
1審に提出した意見書で吉永教授は、世帯分離された孫娘は被保護者ではないため、本来このケースで孫娘が祖父母を養育する義務は、まずは孫娘が自らのふさわしい社会的生活をした上で、余裕の範囲があれば援助する義務(生活扶助義務関係)にとどまり、自分の最低限の生活費以外は援助に回さなければならない義務(生活保持義務関係)ではないと指摘している。取材に対し、孫に祖父母の生活費のために自らの収入を使えというのは、祖父母と孫の関係を実質的に生活保持義務関係と同様にするものであり、到底認められない。したがって、保護の廃止には理由はない、と県による措置を批判した。また、吉永教授は現場での実務について「私の経験や現場実務でも高卒後の専門学校、大学進学者の世帯分離の解除は、その目的(卒業や資格取得)が達成されたときに初めて行っており、まだ資格が取れていない段階で世帯分離を解除し保護を廃止した例は聞いていない」と述べた。
今回の取材への回答に加え、吉永教授は著書の中でも高裁判決について「若者の未来に背を向けた時代錯誤の判決」と批判している。取材に対して「高裁判決は、『准看資格で一応の』自立が達成できたとみなしているが、この見方は看護師業界の常識に反し、本人の正看護師資格取得という誰もがめざす資格の取得を妨げるもので、到底許容できない。また通知の誤読部分もあり、きわめて杜撰な判決だ。それを容認した最高裁判決も許されないものだ」と指摘する。
吉永教授は1審に意見書の提出もしており、その中で、世帯分離制度について生活保護世帯では子どもは高等教育を受けることができないとする原則と高等教育を多くの人が受けるようになった時代の現実の間の乖離を少しでも埋め、自立を助長するためのものと評価している。生活保護を受けている世帯の子が、高等教育を受けるために受給対象から外れなければならない制度について吉永教授は取材に次のように指摘した。
「大学と専門学校を合せた進学率がほぼ8割に達している現在、世帯分離(を進学の条件とする)規定は時代遅れで、生活保護を利用している若者の未来を閉ざすものであり、早急に撤廃すべきものと考える」